山友会

2020年5月7日4 分

山友会はいい人ばっかりじゃん

現在71歳の中田さん(仮名)は、1948(昭和23)年に京都府舞鶴市にて兄2人弟1人の男4人兄弟の3番目として生まれました。
 

 
地元の中学校を卒業後、父親の紹介で、大阪にある親戚の理容室で働き始めます。
 
理容師になりたかったのか聞いたところ、専門の学校に通っていたわけでもなく、紹介されたのでとりあえず働き始めたとのこと。掃除や雑用などアシスタントのような仕事をしていましたが、やりたい仕事だったわけではないということで仕事への意欲がわかず、1年半ほどで辞めてしまいます。
 

 
それからは、寿司屋の見習い、材木屋など、仕事を転々とする日々が続きます。。
 
どの仕事も長くは続きませんでした。
 

 
22歳になった中田さんは、自衛隊に入隊します。
 
ちょうど大阪万博が開催された頃でした。
 
衣食住に困らず、安定していることが決め手になったといいます。
 

 
それから、自衛隊員として全国の基地を転々とする生活が始まります。
 
訓練などがきつい時もありましたが、やりがいを感じていたといいます。
 

 
岩手の基地に配属された際に知り合った女性と結婚。
 
2人の子どもにも恵まれます。
 

 
結婚後も自衛隊員として仕事を続けましたが、異動があり単身赴任で仕事をすることも
 
多かったといいます。
 
映画などで話題となった「硫黄島」の基地にも1年半ほどいたと、当時を懐かしむように
 
話してくれました。
 

 
しかし、さまざまな事情があり、46歳の時に依願退職。
 
家族とも別れ、その後はアルバイトなど不安定な仕事をする日々が続きます。
 

 
歳を重ねるにつれ働き口も少なくなり、日雇いの仕事で生計を立てるようになります。
 
倉庫での仕分け作業などが主な仕事でしたが、繁忙期や夜間のみの仕事だったり、閑散期には仕事の時間を減らされてしまったりと、不安定な状態が続きました。
 

 
アパートの家賃も滞るようになり、ついには路上で生活するようになります。
 
京都の実家は、遠かったことや疎遠になっていることもあり、頼りづらかったといいます。
 

 
山友会と初めて関わったのは、2001(平成13)年頃のこと。
 
当時の中田さんは、上野や新宿など、さまざまな場所の炊き出しにも並んでいました。
 
木曜日に行われている山友会の炊き出しにも並び始め、山友会に訪れるようになります。
 

 
最初はお茶を飲みながらおじさん達と世間話をするだけでしたが、何か役に立ちたいと活動の手伝いをするようになっていきました。
 

 
その頃、中田さんは東京駅周辺で何人かの仲間と一緒に路上生活をしていました。
 

 
ある時、仲間の一人が、80歳という高齢でこれ以上路上生活を続けるのは難しいから助けてほしいと、山友会に相談をしたこともあったそうです。
 

 
その後、中田さん自身は自立支援センター※に入所します。
 

 
※自立支援センター…路上生活を行う人に対して一定期間宿泊場所を提供し、健康管理や就業相談、生活相談を行う場所。
 

 
中田さんは自立支援センター入所後、仕事を探しましたがなかなか見つからず、高齢ということもあり生活保護を受給し、山谷のドヤで暮らすようになります。
 

 
年金も受給できるようになった中田さんは、年金では最低生活費に満たない分、生活保護を受給して生活をしています。
 

 
そして、山友会の水曜日のアウトリーチと木曜日の炊き出しの手伝いをしたり、空いた時間はおじさんたちとお茶を飲みながら過ごしたりています。
 

 
インタビューの最後に、山友会に来る理由を尋ねました。
 
すると中田さんは、「山友会はいい人ばっかりじゃん」と答えました。
 

 
ここで言う「いい人」はいろんな意味があると思いますが、優しくて、思いやりがあって、山友会の役に立ちたいと活動の手伝いをする…
 

 
そんな人たちが、山友会にはたくさんいます。和気あいあいとみんなで集まって、仲間たちと過ごす、そんな雰囲気が山友会の大きな魅力だと思います。
 

 

(広報支援チームやまとも・ボランティア 植田裕太)
 

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